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東京地方裁判所八王子支部 平成元年(わ)29号 判決

主文

被告人は無罪

理由

一  本件公訴事実は、被告人が昭和六三年六月一八日午後八時二〇分ころ多摩市〈住所省略〉先路上で、甲野一郎こと甲野(四一歳)の顔面を手拳で殴打するなどの暴行を加え、全治約一月を要する鼻骨骨折等の傷害を負わせたというにある。右受傷の事実は明白だが、その原因といきさつに関する被告人と甲野の言い分は大きくくいちがい、今のところ直接の目撃者も探知されていない。結局、基本的な事実関係の認定は、所在不明で反対尋問の機会を得られないままの甲野の供述(暴行、傷害の被疑者調書)並びに被告人の供述(否認と自白)の信用性如何に左右されることとなる(いずれも証拠能力は認められる。)。

1  甲野の言い分を要約すれば、「自分がパチンコをしていると左隣りの被告人から突然荒荒しい口調で『てめえ、ライターを拾え』と言われ、身に覚えはなかったが拾い上げた。それでも『何だよ、他人のライター落して。謝れよ』としつこく言いつのられ、果ては『てめえ謝れ、この野郎謝れ』と怒鳴られ、あげく『表へ出ろ』と言われた。とうとう立腹して外へ出たが、みちみちなおも『人通りの少ない所に行こう』『とにかく手をついて謝れ』と高飛車に脅されて、これはやくざ者だなと察した。言い合いをしながら歩くうちいきなり暴行を受けて地面に倒れた。被告人は馬乗りになり、自分の両腕を両膝で組み敷き、顔の中央を拳骨で一回強く殴った。そのため鼻に怪我をした」というものである。ところが、この甲野供述には以下指摘するように信用性についての疑点がある。

(一)  事件から一週間ほど経った六月二五日、最初の受診の折に被告人は右顔面打撲傷(等)の診断を受け、下顎骨等骨折の疑い(検査の結果解消)も持たれた。この点に関しては、二二日ころ勾留中に面接した際被告人の右顔面が赤く腫れぼったく、唇と口の中が切れていたとする友人細野の証言があって右と互に補強し合う証拠関係にある。被告人は甲野に殴られたのがその原因だとし、この訴えは臨場した警察官に対して現場でなされたのを手初めに以後の否認期間を通じ一貫しているわけだが、右のような裏付証拠もあるから、甲野による強い顔面への打撲があったことは本当であるらしい。これについて甲野は、六月一九日付及び二四日付調書で顔など殴っていないし、抵抗の余地もなかったと殴打を否定した上、七月二日付及び五日付調書で被告人が怪我しているのなら自分が馬乗りになられて肘でもがいた時に生じたのだろうとしているが、両腕を膝で組み敷かれ肘でもがくしか抵抗できない状態ならば被告人の右顔面に右のような打撃が加わるのは不自然であり、結局殴打を否定する供述は疑わしい。また、ことの性質上、右の否定が記憶ちがいや忘失によるものとも考えにくい。

(二)  甲野供述には前後二点、重要な内容に関して実質的な変遷がある。被告人がいきなり組み付いてきて自分を倒した(六月一九日付調書。なお、臨場した警察官に対して被告人から投げとばされたと述べていたというのも同じ意味であろう。)というのから、右すね若しくは右膝をいきなり蹴られたため転倒した(六月二二日以降の調書)と変わったのが一点、馬乗りになられた後鼻の付近にものすごい衝撃があったからその時に殴られたのだと思う(六月二二日付調書)という推測から、右の拳で強く殴られたことは目を開いていたからよく分った(八月一六日付調書)という明確な断言にまで変ったのがその二点目である。以上の実質的な変遷は、記憶ちがいや表現の誤りを生じそうにない事項に関してであることで(一)と共通している。

(三)  甲野の怪我が転倒以後の時点で生じたこと自体は確かだと認められる。と共に以上(一)並びに(二)後段の事情の示すところ、甲野の供述には事態の経過をことさら自己に利益なように訴える意図が見え隠れしており、さらに、その意図のもとにあえて嘘をついている部分さえあるのではないかとの疑いを生じさせるものがある。となれば、単に右の供述部分だけでなく、被告人から「てめえ」という荒荒しい口調で言いがかりをつけられ、怒鳴られ、「表へ出ろ」と絡まれ、「手をついて謝れ」と威丈高になじられ脅されたあげく、いきなり攻撃を受けたとするその言い分、要するに自分は一方的な被害者であって悪いのはあげて被告人のやくざまがいの言動だとする言い分が全体としても怪しくなり、自分は被告人のライターを下へ落した覚えはないし、その前段階で被告人に絡んだり嫌がらせをした覚えも一切ないという否定も信用性を疑われることとなる。また、右の否定がもし正しいとなると、被告人がいきなり甲野を咎める動機・きっかけ、まして第一声が「てめえ」という荒くれ口調でくってかかるほどの動機・きっかけが薄弱になってしまうが、粗暴なやくざ者がいんねんをつける場合でも何かそれらしいきっかけや動機はあるのが普通だろうから、被告人の性格になにほどかの好争性や攻撃性がある(中学時代に短気でかっとなることがあると観察されていた。)という前提をとっても、甲野の右否定には内容的にもいささか納得しかねるところがでてくる。

(四)  もちろん甲野の重い怪我が被告人との紛争を原因として生じたことには相違ないのだから、当の相手が後の始末もせずに立ち去ろうとするのを見ては怪我した側としてみすみす見逃せるわけはなく、追いかけてとらえ、通りすがりの人に警察への通報を依頼し、受傷の原因が被告人にあると訴えるのも自然の成行きである。だから、甲野が泣き寝入りせずに右のような行動に出たからといって、それは同人が一方的被害者だからだと一概に言い切るわけにもいかず、前述したような供述の信用性の疑点は解消しない。

2  被告人の言い分の信用性はどうか。

(一)  殴打を否定する被告人供述の概要は、「甲野が『よく出るな、代ってくれよ』などと話しかけてくるのを無視していると、右隣りの台で打ち始め、わざとらしく肘で小突いたり煙草の煙を吹きかけたりして嫌がらせを続け、その言動や風体を警戒してなお相手にならずにいると、組んだ右足で煙草とライターを下へ落とした。こらえかねていい加減にしてくれと咎めたことから言争いとなり、あげく『表へ出ろ』と言われて外へ出た。暗い方へ誘われる道すがら、自分は組の者だ、謝れというのは生意気だ、落とし前をつけろなどと脅された。もう帰るというと、左手を差し出して『見せたい物があるから』と顔を寄せ、思わず覗こうとするところをいきなり右手を振りかぶって自分の右顔面を殴り、次いで口元を殴りつけてきた。口の中が切れて出血するのを感じた。なお殴りかかる相手の右手首を左手で掴み、左手首を右手で掴んだところ、相手は足で蹴りつけてきたが、こうして揉み合ううち相手が下に自分が上になって地面に倒れた。折り重なった姿勢で、なお暴れる相手の両腕を両手で押さえつけたが、そこで相手の顔面の出血に気付いた」というものである。

甲野供述を裏返しにしたようなこの供述には、甲野供述と異なって外の証拠と齟齬する点はなく、前後にとりたてて不自然な変遷もなく、内容上の疑点も少ないと言える(被告人が言うような姿勢で右手で殴られ、右頬に怪我するというのは少しおかしいが。)。その言うように喫煙具の一件に先立って嫌がらせが続いたということならば、被告人が甲野を咎める動機・きっかけも存在したということになる。もとより真犯人が責任のがれに嘘をつく傾向は珍しいことではないし、留学のため渡米を控えていたという被告人には責任を免れたい動機が客観的に存在したことにもなるが、少くとも甲野供述と比較するときは、被告人の右供述には信用性を疑わせる具体的徴表がより少ないということはできる。

(二)  被告人は逮捕から二週間以上経った七月五日から、甲野を殴ったと認めるにいたった。甲野が床の喫煙具を拾い上げはしたが詫びをしないので「謝れ」と言い争った末「外へ出ろ」と連れ出し、暗い方へ誘ううち、相手が顔を寄せてきたので怖くなって右手拳で殴ったところ鼻に命中した、それから揉み合いとなり、倒れた相手に馬乗りとなって両腕を膝で組み敷いた、その後もう一度殴ったかもしれない、自分の怪我は下になった甲野が暴れて殴ったためだ、というのが自白内容の概要である。

ここでは、被告人の方から積極的にいんねんをつけ先制して一方的に攻撃を加えたということで、甲野供述の大筋に沿うかたちとなっているが、大きな問題は取組合いの前に鼻を殴ったとしている点にある。甲野は転倒の前に殴打を受けたとは一度も述べておらず、その最後の供述(八月一六日付調書)においても、馬乗りの被告人から右手拳で強く殴られた、それは目を開いていたからよく分ったとまで断言していることは前述のとおりであって、転倒の前或は揉み合いの前にいきなり鼻を強打されるという顕著重大な被害事実があるのなら、同人がこれを忘れ(事実そのものを、若しくは供述することを。)若しくは意図して終始供述しないというのは肯けないことだし、また被告人としても、甲野の鼻柱を殴ったのが事実であり、そして殴打を認めるのなら、ことさらその時期を揉み合いの前のことだと言い張る理由は乏しい筈である。この点の自白の真実性は疑わしい(のちにあらためて否認するための手掛りとして内容をいつわったものだとしても、真実性が疑わしいという意味に変りはない。)。さらに、この自白においては、喫煙具の一件に先立つ経過において甲野が台を代ってくれと話しかけたという点、にやにやしながら肘で小突いたり煙を吹きかけたりしてわざとらしく嫌がらせをしたという点、すべてが嘘であったと否定されているのだが、そうなると被告人が甲野をしつこく咎めるほどの動機・きっかけが薄れてしまい、いささか納得しかねるものの生じることは1(三)末段に指摘したと同じである。

自白の肝腎な部分に存する以上の疑点は全体の信用性を損う。なお、勾留のさらに長引くのをおそれたため虚偽自白(被告人のいう「取引き」)をしたと被告人はいうわけだが、その言うような事情は一般に真実を告白する動機ともなりうる反面、もちろん虚偽自白の動機としても肯けないものではない。

二  以上を総合すれば、甲野の供述並びに被告人の自白にはいずれも内容上信用性に疑問があって有罪認定の用に供することをはばからせるものがあり、もしやことの大筋は被告人の否認供述にあるような経過だったのではないかという疑いを払拭できない証拠関係になっている。被告人が甲野と示談をして金を払った事実や、釈放後担当検察官に電話で儀礼的な挨拶をした事実があっても、これら状況事実はいまだ上記の証拠判断を妨げるほどのものではない。すなわち、いきなり殴り付けてきた甲野を制するため、向かい合った体勢から右手は相手の左手首を掴み左手は右手首を掴み、掴んだ両腕を上に拡げるようにして揉み合ううち、被告人が上になっておおいかぶさるように一緒に倒れ、転倒の際に被告人は頭と肘を何かに強く打ちつけ、一瞬脳震盪状になったというその時点において、被告人の頭なり肘なりが甲野の鼻部を強打して同人の怪我が生じたのではないかという疑いがもたれる(被告人が言うような体勢で共に転倒すれば、甲野がガードレールに顔の正面、鼻部を打ちつけるのは不自然である。)。

1  右のような揉み合いはそれ自体甲野の身体に対する物理的有形力の行使に外ならず、揉み合いに起因する転倒とそのはずみに生じた鼻部強打、受傷がこれと因果関係をもつことも明らかである。被告人のいう所為は傷害罪の構成要件を充足するのであって、暴行の故意がないとしてこれを否定する弁護人所論はあたらない。

2  それにしても正当防衛だと弁護人は主張する。

被告人が甲野と言い争い、言われるままに店外へ連いて出、暗い方へ歩きながら言い争いを続けた経過があるからといって、直ちに、その先に喧嘩争闘を予想して相対ずくの殴り合いに応じようとしたものだとまではいえない。その言争いの続く段階で甲野が突如被告人の顔を殴りつけ、更に殴打する気勢を示すことは身体に対する急迫不正の侵害であり、これに対して被告人がとっさに相手方の両腕をとらえた上、なお蹴りかかる相手と揉み合うのは、通常の場合がそうであるように防衛の意思に発する反撃行為であると推認するにかたくない(当然のこととして、殴られた腹立ちと昂奮も心中に併存したと推認される。)。そして、かく揉み合ったため両者重なって転倒し、その際意図せずして相手方の顔面を強打する結果となり、ひいて判示の傷を負わせる結果となったのはいずれももののはずみであったらしいということであるから、ここに生じた傷害の程度を考慮しても、被告人の本件所為はなお防衛行為としてやむを得ないものであったということができる。以上、被告人の弁解が大筋で正しいのかもしれないという前提での判断であり、その趣旨で所論には理由がある。

三  すなわち要約して言えば、本件の全証拠関係からは被告人の所為は正当防衛の行為ではなかったかという疑いを禁じえず、この疑いを斥けるに足りる証拠はないというに帰する。ひっきょう本件被告事件について犯罪の証明がないこととなるから、刑訴法三三六条後段により主文のとおり判決する。

(裁判官 柴田孝夫)

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